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2007年12月

2007年12月23日 (日)

修了証

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僕の近況です。本当は今回のブログで、「僕の2007年の10大ニュース」を書いてみようと思ったのですが、今年も10日近くもありますし、日記としては重たいので、本当の近況の「つぶやき」にします。

 先日、12月10日(月)夕刻過ぎから、「新月の忘年会」があり、出席し、楽しい思いをしました。そのイベントで「新月のアファメーション」で密かに三つの宣言をしました。

公開してしまいます。

① 私は来年の7月第1週の大学院の入試に、合格している!

② 私は来春早々のタロット大学の一期生に行っている!

③ 私はブログとMixiを続けている!

僕は夢や願い事の目標を、プレッシャーとして、ネガティブにとらえることを止めたいと思っています。僕はマイペースで、自分でも自覚しているのですが、コツコツと目標に向かい計画的に律儀に、歩みを進めていくタイプではないのです。 

 でも、僕は、今の会社を辞めようとしたりせず、34年が過ぎました。独身時代、会社の英会話の授業も、1年半完全100%の出席でした。 

 今回1117日から6週間、毎週6回、最新の天文学の公開講座を楽しみました。最終回(12/22)は、今回の公開講座を、プロデュースした、僕が大学院のゼミを志望している熊谷(旧姓藤井)教授の講義と更に直々に修了証を貰い、121日には1時間以上も個人的にアポを頂き話しを伺いました。、最終回も最後に受験のアドバイスを貰いました。

受験勉強も既に、開始し来春の2月には、物理学の基礎(力学、電磁気学等)の予備校の授業を受けるつもりです。教科書や受験参考書も手に入れました。

そして、もう一つ、気晴らしに、タロット大学でカモワンタロットの初級コースを学ぼうとしています。1月~3月の6回です。もしも、大学院に無事合格できたら、中級、上級等に進もうと思っています。

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2009年は1609年にガリレオ・ガリレイが望遠鏡で始めて天体観測した年から400年目を記念するInternational Year of Astronomy 2009(世界天文年2009)です。

僕も2009年に向け2008年を飛躍の年にしたいです。

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2007年12月16日 (日)

チョットだけ?高校時代の事を

 僕の高校時代の話は独りよがりで、自己満足の自慢話かも知れないが、40年以上前の証である。体育会系の硬派な偏屈な「時代」だった。

日記と言うより自分史なので近況は、近々アップします。

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 右端が僕、高校3年時のアルバムから

高校(都立松原高校)に入学し、僕が気付いた事は、僕は大変にひ弱だと感じた。一番ショックだったのは、100メートルの走力タイムが15秒以上でこれは、僕が最下位のグループであることであった。

 僕はすぐに運動部に入部しなければ、と思い。当時東京オリンピックに向け活躍中のバレーボール女子チーム(東洋の魔女)に魅せられて、バレーボール部に入ろうと思った。親父に相談すると、良い事だと喜んでくれた。

 確かに、鍛えられた。まずは基礎体力のランニング、指立て伏せ、うさぎ跳びなど、上級生の1年生に対するシゴキが行なわれた。当時の運動部は、スポーツ精神=「根性」だった。新入生10数人で僕はレギュラーになる事を目標とした。しかし1、2年ですぐに目標は達成された。それは、皆、大学受験に備え体力を消耗する運動部の練習についていけず、2年生の1年後には3名しか新入生は残らなかった。

 当時のバレー部の目標は、新人戦(2年生を中心とした)、後はインターハイの大会だった。僕らの学校のすぐとなりに、日大桜ヶ丘高校があり、かなり強いほうで、度々練習試合をした。学区の頂点は駒沢大学付属、日大鶴ヶ丘などであった。鶴ヶ丘高校には、後の全日本チームで活躍する。横田選手(1㍍90㌢)、もう一人、良く似たひときわ背の高いアタッカーを要し強かった。

 僕らの運動部のスタイルは1年生で基礎体力と技と精神(心・体・技)を見に付け、2年生で中心選手となり3年の春の大会を最後に大学受験のためにほぼ引退する。というのがスタイルであった。僕の新人戦は一回戦で敗退、公式戦で1回も勝利出来なかった。

 僕らのスポーツイベントは、春の体力測定(100メートル走、走り幅跳び、ソフトボール投げ、懸垂(女子は釣り下がりタイム))の4種競技の測定で男女別上位25名、の名前と順位と得点が張り出された。僕らの学校は1学年男女別それぞれ150人の3百人であり3学年で男女450名ずつだった。

 秋の体育祭と球技大会そして冬の1万メートルのマラソン大会があった。 僕は3年生の時体力測定では10数番で名前が張り出され、苦手だった100メートル走も12秒台までと力を付け、特にソフトボール投げは3回の仕儀で学校中で2位の78メートルを1回目に投げ、2回、3回目は投てき場のすぐ真上のラグビーポールへ偶然にぶつけるファールだった。

 マラソンは好きな方だったが、男女別々に400人弱が一緒に参加し1年生で100数十番、2年生が、30数番で最後に挑んだ3年時は体調不良で80数番だった。10番以内にもらえる賞状は逃したが、50番以内は小さいが記念のメダルを貰えた。

 僕は3年生になっても、下級生のコーチを続け、また2年生の体育で憶えたラグビーに興味が移っていった。3年生の体育の時間にラグビーを選択し、急速に技を憶えた。その結果、ラグビーの顧問兼コーチでもあった体育の先生に、可愛がられた。 大学の対抗戦の入場券を貰ったりした。3年生の最後の頃はラグビー部員以上に上手くなった。僕はラグビーの最後の練習試合は圧巻で総ての得点に駆らんだ。スタンドとしてチームの司令塔兼ポイントゲッターだった。

 ただし、他の勉強は美術と数学を除いて最下位に近く意地張りの僕は3年間の大学受験浪人が 待ち受けていた。

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2007年12月15日 (土)

チョットだけ?大学時代の事を

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僕の大学時代の最初の絵画の作品は、パステルの美人画だった。大学受験浪人時代に、東京芸大、武蔵美大の実技試験に落ち、ある美大の講師に相談したところ諦めた方がいいと言われ、物理学科に転向した。  

 大学に入りどうしても絵が描きたくて、美術クラブに入部した。すぐに展示会を開くので、何か描くように言われて、「マドンナ」と題して20号ぐらいのパステルの美人画を描いた。この絵はすぐ後に、僕の高校時代の親友が是非欲しいと言うので3000円で買ってくれた。 僕は描き終ると自分の絵が多少、自己嫌悪と感じるので、殆ど全部の作品を安く売ってしまった。結構、友達が欲しがった。と言っても4年間の学生時代に10枚も描いていない。僕はクラブのある先輩に感化を受け、「自画像」と題した文集を不定期に何回か出し、その先輩と詩集なぞも創った。限定100部くらいでシルクスクリーンの表紙にガリ版刷りの文集、詩集などであった。結構、人通手で良く売れた。  僕はその頃、テレビは殆ど見なかった。本や雑誌をよく読んでいた。特に物理や数学等の教科書以外はカミュ、サルトル、吉本隆明、三島由紀夫などの小説を好んで読んでいた。お茶の水のスズラン通りの本屋街によく足を運んだ。

 大学2年の時に夏のキャンプに上高地へ男女5,6人で出かけた。その中の可愛い薬学科の女の子にチョッピリ好意を持ちキッパリと振られた。失意のその時、他の大学だが新人の女の子が3人ほど入部した。その中の一人の女の子が僕に恋をした。僕もその子に相思相愛となった。 結構、天真爛漫な子で皆に可愛がられた。僕らの関係は割りと好意的に皆に認められた。その子の大学が、渋谷の近くだったので、良く渋谷でデートした。生まれて初めて、渋谷の夜の公園で初キッスした。22歳の僕と19歳の彼女はドンドン関係を深めていった。その子は船乗りのお父さんを早くに亡くし、親一人、子一人であった。その子の母親は横須賀の米軍基地で働いているらしかった。僕がマサオでその子は雅子で通称「マコ」と皆は呼んだ。マコは僕と付き合い出した頃、京浜急行線の京浜富岡の駅の傍にアパートを借り、僕はそこに通った。

 少し要領の良かった僕は殆んど授業に出なかったが、サークルの仲間同士で授業を決めて、その授業だけは全部出て、総ての科目のノートが手に入り殆んど総て優を取った。 僕は4年のゼミで数値計算の卒論と学部長の推薦と一寸したコネで今の会社に合格した。僕は僕の両親にもマコを紹介し僕の家にも1,2回ほど泊まったり、マコの母親にも気に入られていたのに、マコは結婚を拒み。僕が4年生の秋に他の彼氏を作った。

 後日談だが、3,4年後、僕が沼津工場に勤めた時、独身寮に突然、会いたいと電話があり。マコは母と実家の九州の佐世保で2人だけで暮らしているとのことで、新幹線を乗り継ぎ、博多で再会した。その時プロポーズらしきものをしたが、やはりマコはまた拒んだ。その後だが、僕が今の女房と結婚し二人の子供を設け、僕の父を亡くし、マコの母も亡くなり天涯孤独になった頃、マコは結婚した。40歳過ぎてからで、子供はいないらしい。

 西暦2000年頃、30年ぶりにサークルの皆に逢った時に、軽井沢の別荘の管理人をしているらしいと聞いたが、もう遭えなかった。3,4回電話で話しをした。今は幸せそうなのでもう、僕は電話をしない。年賀状だけ出しているがここ2,3年返事が来なくなった。

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