チョットだけ?高校時代の事を
僕の高校時代の話は独りよがりで、自己満足の自慢話かも知れないが、40年以上前の証である。体育会系の硬派な偏屈な「時代」だった。
日記と言うより自分史なので近況は、近々アップします。
右端が僕、高校3年時のアルバムから
高校(都立松原高校)に入学し、僕が気付いた事は、僕は大変にひ弱だと感じた。一番ショックだったのは、100メートルの走力タイムが15秒以上でこれは、僕が最下位のグループであることであった。
僕はすぐに運動部に入部しなければ、と思い。当時東京オリンピックに向け活躍中のバレーボール女子チーム(東洋の魔女)に魅せられて、バレーボール部に入ろうと思った。親父に相談すると、良い事だと喜んでくれた。
確かに、鍛えられた。まずは基礎体力のランニング、指立て伏せ、うさぎ跳びなど、上級生の1年生に対するシゴキが行なわれた。当時の運動部は、スポーツ精神=「根性」だった。新入生10数人で僕はレギュラーになる事を目標とした。しかし1、2年ですぐに目標は達成された。それは、皆、大学受験に備え体力を消耗する運動部の練習についていけず、2年生の1年後には3名しか新入生は残らなかった。
当時のバレー部の目標は、新人戦(2年生を中心とした)、後はインターハイの大会だった。僕らの学校のすぐとなりに、日大桜ヶ丘高校があり、かなり強いほうで、度々練習試合をした。学区の頂点は駒沢大学付属、日大鶴ヶ丘などであった。鶴ヶ丘高校には、後の全日本チームで活躍する。横田選手(1㍍90㌢)、もう一人、良く似たひときわ背の高いアタッカーを要し強かった。
僕らの運動部のスタイルは1年生で基礎体力と技と精神(心・体・技)を見に付け、2年生で中心選手となり3年の春の大会を最後に大学受験のためにほぼ引退する。というのがスタイルであった。僕の新人戦は一回戦で敗退、公式戦で1回も勝利出来なかった。
僕らのスポーツイベントは、春の体力測定(100メートル走、走り幅跳び、ソフトボール投げ、懸垂(女子は釣り下がりタイム))の4種競技の測定で男女別上位25名、の名前と順位と得点が張り出された。僕らの学校は1学年男女別それぞれ150人の3百人であり3学年で男女450名ずつだった。
秋の体育祭と球技大会そして冬の1万メートルのマラソン大会があった。 僕は3年生の時体力測定では10数番で名前が張り出され、苦手だった100メートル走も12秒台までと力を付け、特にソフトボール投げは3回の仕儀で学校中で2位の78メートルを1回目に投げ、2回、3回目は投てき場のすぐ真上のラグビーポールへ偶然にぶつけるファールだった。
マラソンは好きな方だったが、男女別々に400人弱が一緒に参加し1年生で100数十番、2年生が、30数番で最後に挑んだ3年時は体調不良で80数番だった。10番以内にもらえる賞状は逃したが、50番以内は小さいが記念のメダルを貰えた。
僕は3年生になっても、下級生のコーチを続け、また2年生の体育で憶えたラグビーに興味が移っていった。3年生の体育の時間にラグビーを選択し、急速に技を憶えた。その結果、ラグビーの顧問兼コーチでもあった体育の先生に、可愛がられた。 大学の対抗戦の入場券を貰ったりした。3年生の最後の頃はラグビー部員以上に上手くなった。僕はラグビーの最後の練習試合は圧巻で総ての得点に駆らんだ。スタンドとしてチームの司令塔兼ポイントゲッターだった。
ただし、他の勉強は美術と数学を除いて最下位に近く意地張りの僕は3年間の大学受験浪人が 待ち受けていた。
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